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お風呂

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八月十三日 金よう てんきはれ  三人でおふろへはいりました。みんなでせなかあらいっこをしました。ちずちゃんとわたしでせっけんであわをつくってびんでみずやさんごっこをしました。(昭和28年小学2年生の私の絵日記)  今冬(2012年)は格別に寒い冬です。新潟などでは記録的な大雪で、屋根雪下ろしの事故も相次いでいるようです。ここ北陸では雪はさほどではありませんが、気温が例年にも増して低く厳しい冷え込みです。こんな時はお風呂が一番。”オフロガワキマシタ“の合図で、ちょっと熱めの湯に身を浸すとき、冬もいいなあと、極楽気分です。お風呂がこんなに簡単に沸き、しかも毎日入れるなんて夢のようです  日本は 緑したたる山国ですから、湿度は高めです。汗ばんだ体を洗いたくなりますよね。日本人の風呂好きは有名ですが、原因の一つはこの地理的条件による湿った気候にあると思います。私は四十数年前、アメリカ、ウイスコンシン大学に1年間留学したことがあります。キャンパスに程近い古い私立女子寮に住んでいました。部屋には手洗い用のシンクがあるだけで、トイレ、シャワー、風呂は各階に二か所。その階のみんなで共用です。シャワー室の片側にトイレ個室が並んでいて、もう一方の側にシャワー室が並んでいて、シャワー列の端に、たった一個のバスタブ個室がありました。この風呂を順番待ちで使うなんてことはありませんでした。誰かがたまにしか使わないようなのです。シャワーだって、みんな毎日は浴びないのです。乾いた国はこんなに違うのかと、とても驚きました。   日本のお風呂が恋しくて、ある日、私はバスタブに熱い湯をためて入りました。当然湯気が立ちます。トイレの前で誰かと誰かが話していました。   「すごい熱いバスを使ってるのだれ?この湯気!」 どうも、湯気が内装などを痛めるので、熱い湯気を嫌うようです。湯けむりは私たち日本人にはほっとする情景ですけどね。  さて、今日日本では毎日風呂に入るのが当たり前のようですが、私の小さかった頃、北陸金沢では毎日なんて入りません。一週間に二回くらいかな。薪で沸かす風呂ですから、薪もいる、その薪を燃して沸かさねばならない、冷めれば追い焚きするのにまた薪を燃す。たまに煙突掃除もしなかればならず大変なのです。それに入浴には洗濯物がつきもの。洗濯機のない時代に毎日の風呂なんて不可能です。特に冬場は週に一...

昭和15年、父母の結婚式

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   以下は、昭和15年(1940年)1月20日(於石川県)、母の結婚式の一日の様子です。2009年に88歳の米寿を迎えた母に聞き取りして記しました。  昭和15年(1940年)1月20日。あいにくの雪模様。みゆき(私の母方祖母)は朝早くから大量の赤飯を蒸しながらも、しきりに空模様を気にかけている。が、雪はひどくなる一方で、横なぐりの風に舞う雪があっという間に吹き溜まりを作る。夕方からみゆきの次女静子(私の母)の結婚式だというのに難儀な大雪である。  嫁入り道具は結婚式当日に嫁ぎ先に運ぶのだが、この大雪では村まで車は入れず、まずは道具をソリで最寄りの町、松任まで運ばねばならない。三つ重ねの桐タンスなど一つ一つをソリに乗せて運ぶので大勢が何往復もする。帰ってくる雪まみれの道具方に酒も振る舞わねばならない。みゆきは大忙しであった。ひとまず松任までソリで運んだ道具、土産物、藁細工の鶴亀が飾ってある大きな赤飯のお櫃二個、五色饅頭など何とか車で金沢の婚家に運ぶことができた。みゆきはほっと胸をなでおろす。皆、忙しく立ち働く中、村の長老は嫁ぐ娘の膳に赤飯や魚などを取りよせて「これがここでの最後の膳だから、たくさん食べろよ」と、気遣う。(村同士の結婚だともっと大掛かりで、道具方は揃いの法被、はちまき姿で婚家に道具を運ぶ。婚家近くに来ると手にした青竹を打ち鳴らしながら、祝い唄を歌って運ぶそうだ。酒樽の口に青竹をさした巻き樽から、酒が振る舞われるという)   花嫁もあまりの大雪に自宅から花嫁姿で出ることができず、松任の馴染みの呉服屋で、赤い振袖に角隠しという花嫁衣装に着替え、そこから車に乗り込んだ。朝から赤飯を蒸したり道具方の接待でてんてこ舞いだった母みゆきも、夕方までにはちゃんと髪結いに行き、身支度を整え婚家まで娘に付き添った。仲人と実家代表として静子の兄や、姉の夫、母親の兄が結婚式に出席した(娘の親は結婚式に出席しないのが当時のしきたりだった)。   婚家の玄関にはすでに五色婚礼饅頭の重ね箱が飾られ準備万端。結婚式は夕方から始まる。夕闇の中、婿側の案内人が町角で提灯をかざし、嫁方を待ち受ける。その明かりも降る雪にかき消され切れ切れでか細かった。案内人に従って花嫁一行は降りしきる雪の中、雪の塊を危なっかしく上り下りして、ようやく婚家の玄関に入った。なんとも恨めしい大雪であった...

ジャック アンド ベティ

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  黒い夜空に鋭角の三角屋根が三塔。それぞれの長窓から漏れる明かりは黄色。中学入学後、初めて習う英語の教科書は確かそんな表紙でした。教科書の名前は、『Standard Jack and Betty』。今から思えば、「戦勝国アメリカはこんなに豊かな国、民主主義っていいものだよ」というメッセージが込められた教科書だったのでしょう。  ジャック・ジョーンズとべティ・スミスは昭和34年(1959年)当時の私達と同じ13、4歳の中学生。彼らと彼らの家族の日常を通し、豊かなアメリカに初めて接したのです。テレビも電話も大きな冷蔵庫も家庭に一台の車も誕生会もピクニックも何もかもが珍しくて羨ましくて、食い入るようにその挿し絵を眺めました。  英語は、ハローとかグッバイくらいは知っていたと思うけれど、その他の全部、書体も綴りも発音もまるっきりの初めてです。私はまずその発音の異様さに驚くばかりです。舌が回ってしまいそうで、高い低いもあって、とにかく聞いたことのない不思議な音にまずは笑いが込み上げてきます。中一英語担任は若い福本信二先生。今思うと、発音、アクセント、イントネーション共に巧みな先生でした。それでいっそう日本語との違いが際立ったのでしょう。授業中たまらず、私は教科書で口元を隠し忍び笑いをこらえていました。が、次第に私はジャックとベッティの目を見張るような豊かな世界に魅了され吸い込まれていったのでした。  中学1、2年の頃は、国語の授業にさえまだ主語や述語という言葉も出てきません。なのに英語では主語、述語だけではなくbe動詞やhave動詞、助動詞、平叙文、疑問文、受身文、関係代名詞等々の文法をこなし、国語の先に英語で文法というものを習ったようなものです。日本語は子供にとりあまりにも身近で言語という感覚は持ってい ませんでした。  あれから四半世紀、私達は彼らの目論見通り民主主義の世になり、しっかり西洋文明社会に組み込まれました(戦前、殊に大正時代には日本はかなり西洋文明を謳歌していたのですから、当然かもしれませんが)。今、双方の生活レベルはさして変わりません。加えてPC、携帯、ビデオ、最近はカーナビ、DVDまで日常化しています。あの教科書はいつまで使われていたのでしょうか、、、廃版になってもうずいぶん時間が経ったことでしょう。憧れというものを持っていた頃の自分をとても懐...

ニワトリ

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   私が小さかった頃、田舎の祖母の訪問は何より楽しいことでした。お土産も嬉しいし、母の心も和らいでか優しくなります。お土産は仏供米(ぶくめ)袋に入ったお米に、卵に、私達にはかわいらしい鼻緒の新しい下駄。終戦間もなくのその頃、卵は充分に立派なお土産でした。祖母の田舎ではニワトリを 何羽も飼っているのです。  たまにではなく、一個を分けあってでもいいから子供達に毎日卵を食べさせたいとの親心からか、我が家でもニワトリを飼い始めました。小屋は納屋にさしかけるようにして父が手作りしました。止まり木もつき、寝床に新しい藁も敷きました。草を食べさせるときは庭に放し、逃げないように上から大きい竹がごをかぶせます。アサシラギ(ハコベのこと)という雑草はニワトリの好物で、籠の中で食べ尽くすと地面に円形の"はげ"ができます。そして又、次の草へ移動させるのです。  子供にとってそのニワトリは家畜というよりペットそのものでした。やがて籠無しでも逃げることなく私達の後を追い、撫でられ、膝に抱かれコッ、コッ、コッと唄いました。学校から帰ると裏庭にいるコッコは縁側からひょいと家に上がり、お尻を振り振り玄関までつっ走って私達を出迎えるようになりました。暖かくて質量感のある異種の生き物のいとしさを初めて知りました。  雷の鳴ったある午後、コッコはいなくなりました。雷鳴におびえたのでしょうか。心配で心配で妹と二人で探し回った挙げ句、近所の交番にまで迷子(じゃなく迷ニワトリ)の報告がないか尋ねに行きました。次の朝、彼女は帰ってきました。体の半分は濡れています。人の心配をよそにどこかの軒下で雨宿りをしていたようです。あの時の安堵感、今も忘れてはいません。  共に暮らしたこのニワトリですが、だんだん歳老いて卵を産まなくなりました。母は私たちに断りもなくコッコを実家のニワトリ小屋に預けてしまいました。しばらく振りで見るコッコはたくさんのニワトリの中にまぎれていました。でも私や妹のことを覚えていて駆け寄ってくるのです。おじさんの話ではよそ者の彼女はいじめられているとのこと。その次に行ったらコッコは見あたりません。いじめられてかわいそうだから絞めて食べてしまったとのこと。あんまりです。ひど過ぎです。  今、私は毎朝一個の卵を半熟で食べています。たぶん、一度も地面に生えるアサシラギなど食べたこと...

産婆さんがやって来た

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   1950年(昭和25年)6月8日、私が4歳になったばかりの頃、妹が生まれました。その時のことは私の最初の記憶となり今も色褪せず思い浮かべることができます。家族で丸いちゃぶ台を囲んで朝ごはんを食べていた時、急に母のお腹が痛くなってきました。片手を後ろについて、もう一方をお腹にあてて反り返るようにして痛がっています。父はあわてて自転車に乗って産婆さんを呼びに行きました。  次の記憶は茶の間の隣の部屋で産婆さんの介助を受けている母の姿です。障子に指で穴を開けて兄と代わる代わる覗いていたら、「こら!覗くまい」と、祖母に叱られました。産声の記憶は定かではありません。  産室の隣の座敷に産湯のタライが置かれ、父、兄、私がタライを囲み赤子に産湯を使わせる産婆さんの手元を見つめていました。母は襖が開いた隣の産室からその様子を見ていました。湯上りに着せられた産着は兄のお下がりでした(敗戦後4年を経ていましたが、まだ物資は豊かではなかったのだろうと思います)。父や兄はどんな気持ちでこの新しい命を見つめていたのでしょうか。私は何もかもが珍しくて、ただただ見つめるばかりでした。裸の赤ちゃんしかり、畳の上のタライしかり、産婆さんしかりでした。  当時の産婆さんは、お産の時だけ家にやって来るのではなくて、その後一週間か10日ほど毎日家にやって来るのです。母の産後の様子を見たり、乳の出具合を確かめたり、また出やすいように乳を揉んだり(マッサージしたり)するのです。私はワクワクして産婆さんの後をついて回っていました。その頃の産婆さんは赤ん坊のオムツまで洗ってくれるのです。家の勝手口の外にタライを出してオムツを洗っていた産婆さんの一挙手一投足を見ていました。6月の初めの空はまだ梅雨が始まっていなかったようで乾いて晴れていました。  戦後は誰にとっても暮らしてゆくのがやっとの日々で、親は子供のことまでゆっくり構ってはいられなかったのでしょう、私はいつも祖母の膝の上でした。そんな平凡な毎日が、妹の誕生という出来事で突如刺激的でワクワクする日々に変わったのです。  先日、92才になる母に、妹誕生にまつわる私の記憶を確かめてみまし。母はいちいち頷いて「そうや、そうや」と、懐かしんでいました。私の脳裏にかくもはっきりと刻まれるほど、妹の誕生という出来事は4歳の私には鮮烈だったのです。有史以来つい...

過去は現在

    このブログ「過去は現在」欄で、私は今はもう過ぎ去ってしまった過去のあれこれについて書いてみたいと思います。自分の幼かった頃の懐かしい過去は、生き生きとよみがえり文章に留めることができます。失敗談や辛い過去は、しばしば傷みを伴って去来し、なかなか上手く文章にできないかも知れません。 だれの心にも、ひょいと頭をもたげ思い起こされる過去とは一体何なのでしょうか。   矛盾した言い方かもしれませんが、過去は現在ではないだろうかと思うようになりました。現在生きている人間が引き出すことにより、初めて語ることのできるもの。あるいは初めて存在するものではないかと思うのです。過去は言葉やもの(遺品、遺跡など)を媒体として、現在にしか存在しえないものではないでしょうか。そういう意味で過去は現在で、過去を語るとき現在はまた、過去でもあるのではないか。過去と現在はそんなに分離していないのではないでしょうか。   つい、過去に目を向けてしまいがちな私は、自分の過去のあれこれ、人間の過去やルーツ、さらにさかのぼって宇宙にまで思いを馳せてしまいます。冬晴れの夜空は星がよく見えます。南の空にオリオン座が見え、シリウスの円弧もひときわ目立っています。北の空にはカシオペア、大熊座、北極星もかすかに見える。何億光年前の光が、ついに今、私の目に届いていると思うと壮大な過去もやはり現在の私が見るから、あるのではないかと思うのです。地球に人間というものがいなかったら、星々はあっても認識されないのであろう。そんな意味であの壮大な宇宙の過去も現在なのかもしれません。   そもそも時間というものは137億年前に起きた宇宙のビッグバンから始まったと言われています。ビッグバンにより物質が動き出した瞬間から時間が生まれ、私たちの今現在はそのビッグバンの最果てにいるのです。その最果てでヒト科ヒト属ヒトである私たちは、こうやって過去を語りながら過去を現在に引き出し積み上げてきたのでしょう。そして私たちは様々なことを知るようになりました。この世のあらゆる生命体や身の回りの物は化学反応であることも、DNAの二重螺旋までをも知るようになったのです。たった4“文字”であらゆる生命の情報を作りだし、写しだし、さらには、混ぜたりして次に渡すことまで。過去を語る生き物はこうしてますま...