昭和15年、父母の結婚式
以下は、昭和15年(1940年)1月20日(於石川県)、母の結婚式の一日の様子です。2009年に88歳の米寿を迎えた母に聞き取りして記しました。
昭和15年(1940年)1月20日。あいにくの雪模様。みゆき(私の母方祖母)は朝早くから大量の赤飯を蒸しながらも、しきりに空模様を気にかけている。が、雪はひどくなる一方で、横なぐりの風に舞う雪があっという間に吹き溜まりを作る。夕方からみゆきの次女静子(私の母)の結婚式だというのに難儀な大雪である。
嫁入り道具は結婚式当日に嫁ぎ先に運ぶのだが、この大雪では村まで車は入れず、まずは道具をソリで最寄りの町、松任まで運ばねばならない。三つ重ねの桐タンスなど一つ一つをソリに乗せて運ぶので大勢が何往復もする。帰ってくる雪まみれの道具方に酒も振る舞わねばならない。みゆきは大忙しであった。ひとまず松任までソリで運んだ道具、土産物、藁細工の鶴亀が飾ってある大きな赤飯のお櫃二個、五色饅頭など何とか車で金沢の婚家に運ぶことができた。みゆきはほっと胸をなでおろす。皆、忙しく立ち働く中、村の長老は嫁ぐ娘の膳に赤飯や魚などを取りよせて「これがここでの最後の膳だから、たくさん食べろよ」と、気遣う。(村同士の結婚だともっと大掛かりで、道具方は揃いの法被、はちまき姿で婚家に道具を運ぶ。婚家近くに来ると手にした青竹を打ち鳴らしながら、祝い唄を歌って運ぶそうだ。酒樽の口に青竹をさした巻き樽から、酒が振る舞われるという)
花嫁もあまりの大雪に自宅から花嫁姿で出ることができず、松任の馴染みの呉服屋で、赤い振袖に角隠しという花嫁衣装に着替え、そこから車に乗り込んだ。朝から赤飯を蒸したり道具方の接待でてんてこ舞いだった母みゆきも、夕方までにはちゃんと髪結いに行き、身支度を整え婚家まで娘に付き添った。仲人と実家代表として静子の兄や、姉の夫、母親の兄が結婚式に出席した(娘の親は結婚式に出席しないのが当時のしきたりだった)。
婚家の玄関にはすでに五色婚礼饅頭の重ね箱が飾られ準備万端。結婚式は夕方から始まる。夕闇の中、婿側の案内人が町角で提灯をかざし、嫁方を待ち受ける。その明かりも降る雪にかき消され切れ切れでか細かった。案内人に従って花嫁一行は降りしきる雪の中、雪の塊を危なっかしく上り下りして、ようやく婚家の玄関に入った。なんとも恨めしい大雪であった。(私の中学、高校の頃もまだ金沢では婚礼当日、家の前に五色婚礼饅頭の重ね箱を飾る風習があった。“この家は今日結婚式だ”と、すぐに分かる。尤もこの重ね箱は饅頭屋の宣伝を兼ねた空箱で、中身は重箱などの什器に収められ家の中。あとで参列者や近所に配られる)
まずは玄関で“水合わせ”をする。実家から青竹に入れて持ってきた水と、婚家の水をかわらけ(素焼の盃)に入れて花嫁が飲み干し、その杯を仲人が玄関のたたきに打ちつけてわざと割るのであ。あたかも太古からのアミニズムを彷彿させるこの原始的な儀式は、不思議と一同を厳粛な思いにさせる。持参した花嫁のれん(多くは加賀友禅染めで、実家の家紋が染め抜かれていて、華やかな模様のものが多い)はすでに仏間の入口に掛けてある。そののれんをかいくぐり花嫁は仏壇に参る。二階の座敷で三三九度をし、記念写真を撮った。冬のこととて花嫁の手はしもやけでは赤く腫れていた。その手を気にして、「写真にこのしもやけ写らんかねぇ」と、静子は笑った。夫になる人、純孝(わたしの父)に会うのは、この日が2度目。1度目は娘の家で行われた見合いの席。2度目に笑えたのはかなりいい雰囲気のようだ。
式の後、またも車に乗り込む。行き先は披露宴会場の料理屋「池上楼」。披露宴は夜の9時、10時ごろから始まり、明け方2時、3時まで続く長丁場だ。芸者の舞いあり、それぞれの方からの出し物ありで、とても賑やかなものである。「婿さん、どうぞ」と出し物を乞われた純孝は、緊張してか「おじさんお願い」と、叔父に預ける。田中叔父は謡う。花嫁側からもみゆきの兄、中野伯父が謡い、宴は佳境に入る。(当時謡や華道は当主のたしなみ。家対家の社交には必須だったようだ)
静子の披露宴の衣装は黒地の紋付振袖で、お色直しは訪問着。雪の夜に淡い電燈の明かり,桐火鉢の炭火、黒漆の御膳。すべて抑えがちな色彩の中で、花嫁の衣装は美しく際立ったことだろう。引き出物は赤飯、上菓子鶴亀、五色饅頭などの定番に加え、パイナップル、バナナ、カモ1羽など普段は手に入りそうもない珍しいものばかりの籠盛りである。こうして結婚式、披露宴は早朝お開きとなった。純孝24歳、静子19歳の若さである。(不在地主とは言え、当時花婿の父はすでになく、母一人子一人の家計は豊かでなかったはず。婿側はこの結婚式のため田圃を一枚売ったそうだ。嫁側への結納はダイヤの指輪に腕時計。結納金はもらわず、その代りお稽古事をさせてもらうことを約束した。結婚後始めた華道も、間もなく世を覆い始めた戦時色のため頓挫した)
その後、3日目にも、5日目にも宴が持たれる。それぞれ三つ目、五つ目などと言ったり、あるいは単に部屋見舞いと言ったりする。新婚夫婦にしてはちょっと恥ずかしさの伴う宴ではなかったか。結婚式はいわば花婿側主体の儀式と宴だが、部屋見舞いは花嫁側の親戚も大勢集まり、酒を交わす。その時、間違えて酢の入った一升瓶から”酒”が注がれ、人々は閉口したそうだ。のちのちまでの語り草である。
新婦の育った家は田舎の大きな地主農家。新郎の家は不在地主で、家は金沢市の南端にあった。風呂には水道があり風呂釜の横には上がり湯を沸かす釜もあり、町の家の便利さに新婦はいたく感じ入った。家事は次の日から始まるが、しばらくは結婚式当日に結った日本髪で過ごす。日本髪の頭で風呂焚きをし、焚き口に頭をかざしていて髪が焦げて、新婦静子は仰天。いつもと違う頭の大きさに加え、勝手のわからぬ慣れぬ家だったからだろう。新婦の家事スタートはこんなほろ苦いエピソードで始まった。花婿は教師で、村では誰も着ていないような立派なスーツを2,3着も持っていて花嫁は“素敵だな”と思った。その“素敵だな”は、きっと花婿そのものに対する印象でもあったのだろう。
結婚式から一週間ほど経て“衣装見せ”がある。花嫁が持参した着物類を衣桁に掛けて親戚や近所の人に披露するのだ。このような結婚にともなう数々の行事をはさみながら新しい家での暮らしが始まった。しばらくして、“婿よばれ”があり、今度は嫁の実家でまたもや披露宴と同じような宴が持たれる。結婚は双方の親にとり実に一大事で、降りしきる雪や、当日の忙しさなど何ほどの事ではもなかったのだろう。
昭和15年、まだまだ家対家の結婚式であり結婚である。何度も宴席が持たれるのは両家が馴染みあって当人同士がうまく行くようにとの配慮からであろう。また、部屋見舞いなどと称する婚家訪問は、そのものずばり、親が決めた結婚なので責任を負う親側が、うまくいっているかを窺う偵察に近い訪問であったのだろう。親が子供の結婚を決める時代、責任を負う親側は結婚式後、あれこれにかこつけて様子を見たい思いに駆られるたのであろう。
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